昭和54年06月25日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気をゆるめると、すぐに後へもどるぞ」
昨日のご理解に私が、御夢に頂きました「宝来山」それこそ切り立った様な山に登れば登る道はあると言うのではなくて、もう登ればもうはっきりしかも安定した登って行けれる道が付いておる。その宝来山の八合目位の所に、私が登っておるというね。けれども下を見ると、もうそれこそ目が廻る様な、まあ千尋の谷というか、まあ感じ。そこからではないですけども、まあ向こう側の方へ見えるとこから人がそこから転落した。それこそもんどりうって落ちた。そしてその杉木立の中に落ちておる。
その死体というのは別にこう身体が崩れておるわけでもなくて、大人ではないけれども十二、三位の子供が、あそこに横たわっておるのですけれども。その漫画の本を、こう小学校の時にあの読本を読みますよね。こんなにしてこんな風にして握っておるというお夢を頂いて、昨日そう言う事を中心にして聞いて頂いたんですけども。今日はやっぱり信心、この山を登ると言うか。
九里半登っても油断をしてはならない。私は昨日八合目ぐらいの所まで登って、そしてこれから後の二合という所はだいたいどう言う様な所であろうかと思わせて頂いたら。この山でそれにね、丁度こう輪をかいた様な、虹の様な雲がこう掛かっておる所を頂いた。「これからが、天の信心ぞ」と頂いたです。してみると合楽の信心は、もう大体もうそれこそ土の信心に極まったとして、土の信心を大切に。もういうならば、もう土の信心が身についた。又付いておらなきゃならない。
これほど繰り返しここでは教えを頂いてるんですからね。いうならば受身の信心。黙って治めるとかね。それこそ、受けて受けて受けぬかせて頂く。どういう煩わしい事であっても、それをこう受けて受けて受け抜かせて貰うて、それを自分のいうならば根肥やしにまでしていこう。ね。というような信心。あとの二合というのは、愈々天の心を心とする信心と言う事を頂いたんです。
そして今日は、この八十一節とだからいうならば愈々八十と。八にたすという字を書いて一という、これから愈々もっともっと広がりに広がっていく。今日はその第一歩という事じゃないでしょうか。今まで天地、天地という天地の心と言う事を言うてきましたけれども、ほなら私共が行の上に頂き現して来たのは、いわゆる土の信心であったと言う事です。黙って受けて黙って与える。ね。成程考えてみると合楽の信心はいわゆる土の信心です。土の信心が八合目ぐらいの所。
あとのいうなら、こう山に虹が掛かったり、丸い輪が掛かっておる。それから上はもういうならば。ね。それから下を大地の信心、土の信心と言うなら、これから上は愈々天の信心だという。ね。そういう意味で合楽の信心が、又一段と今度はね、度は天の信心という所への焦点をおいての信心が進められる事であろう。私共が土の信心を頂いては来た。けれどもそれは完璧に土の信心を身に付けたかと言うと、実際はそう頂いてきただけであってそれが本当に土の信心が身についたとは言えないから。
そういう信心もこれは頂きながら、土の信心は、いうならば受身である。ね。黙って受けるという受身。天の信心はそれに対する所の攻撃。攻撃というか打ち込むと言う事だろうと思う。受身でなくて打ち込んでいく信心だと言う事です。ね。打ち込んでいく信心とはそんならどう言う事なんだろう。いやそれが前だって土の信心に打ち込んで来た。そういう意味じゃないですよ。ね。土の信心に打ち込んだと言う事は、愈々土の性根を身につけたと言う事だね。又その修行をしたと言う事なんです。ね。
今日はそういう意味ですね。一つ今日の御理解は、まぁそういう意味で意義のあるみ教えとして頂かなきゃならん。勿論ね限りなく土の信心を極めさせて頂いて、もうこれはいうならその土の信心の有り方というものは。もうあらゆる角度からいわば説かれてきた事ですから、解るだけ分かった。ね。だからそれ、愈々自分の血に肉にしていかなきゃならない。信心は私信心の道は、何の道でも険しいと言われるけれども。私は信心の道はもう登れば登るほど尊い。
険しいじゃなくて楽しい。頂上を極めた時の事思うただけでも有難い。しかも道は茨の道でなくてもう立派な道がついてるんだね。けれどもなら下を見れば目が廻る様に高い所に登っておるのですからね。自分で飛び降り自殺という様な、自殺行為的な行為がない限り私共は愈々頂上に向かうという。それこそ九里半も登っても九分九里登っても油断はならないと言う事なんです。ね。いうなら漫画の信心と言う事はある意味において、いうなら自殺行為だと思うです。ね。
これはそうでしょう。高い所に居れば居るほど落ちる。いうならば低い所から落ちた者は切れもせんけどね。高い所から落ちれば怪我も大きいだけではなくて命を落とすような事にまで成りかねないのです。と言うといかにも厳しいようでもあるけれども厳しい事じゃない。只その道を歩いて、愈々求めに求めて、天の心を心としての信心を楽しゅう有り難うやっぱりこれを登っていく以外にはないと言う事であります。そして「向こうへおりたら安心じゃ」という所までね。
いうなら大安心のおかげを頂いて、この世を全うしあちらに安心の徳を持って誕生させて貰うという様な、まあおかげを頂きたいと言う事でございます。ね。そこであと残っているその二合の所と言う事は、どう言う事かと言うと、こりゃその概略的にですかね。頂いておる天の心とはね、もう麗しの心だと。無条件の心与えて与えてやまない心だという風に、まあ言っておりますよね。だから今日からいうなら天の信心に本気で取り組むと言う事になったら、どう言う事なるでしょう。
愈々天の信心に打ち込んで行く事になったらどう言う事になるでしょう。ね。今までは受身であった。ね。今日からは打ち込んで行く信心恐らく、まっ今日を境に天の信心が、もっともっと具体的にあらゆる角度から説かれる事でしょう。ね。だから結局愈々美しゅうなる他はないなと。する事なす事がそれこそ無条件でなからなければいけないなと。しかも与えて与えてやまない心だなと。まあ大別すればそれですけど、それを具体的に自分の身に付けて行こう。
日々の御用の中にそれを頂き現わしてて行こうと言う事になるですね。限りなく美しゅうなるという事だから、又信心の上にも限りがないです。もう今くらいでよかろうと言う事はないです。もう限りなく美しゅうならせて貰おう。昨日は関さんの所の、恒例の謝恩祭でした。もう関さん所に毎年やらせて頂いて今年ほど気分の良いお祭りを奉仕した事は無かった。というのはお祭りに子供達が皆んな揃うた事ですね。山口に行っておられる。ひろ子さんも前の日から帰ってきた。
今年こそ忙しい忙しい、もうお祭りは出られんかもしれんという様に忙しかったけれども。ちょっとお祭りにおかげを頂いて、そしてそのもう「日頃御無礼をしとりますから、もう親先生すみません」と言うのがもう心から根からのすいませんである。もうサービスこれに努めると。「もう先生にはご無礼しとるけんで顔も合わせられん」と言うて、冷たい風にしとんじゃなくて、もう本当に心からいうならば「親先生すみません」という感じ。いつも関さん、ああいう性格のお強い方ですから。
もうなんかイライラするというものがお祭りに現れておったけれども、昨日はそれが一つもなかった感じだった。一人息子の息子さんもお祭りだけには一寸出て来た。ね。本当にもうそれこそ一月前からもう一生懸命願うじゃなくて、一月前から一生懸命その、いわゆるお祭りに対するその心準備ではなくて、形のような準備も進めておられた。特に原さんとか秋山さんなんかがもう打ち込んで、もう二日ぐらい前からその御用に当たって居られました。いうならば。ね。
本当に麗しのお祭りであったという感じなんです。もう天の心とは麗しの心と、一月前からいうならば。ね。なかなか今一人ですからお家に一人で居られますから。もうやっぱ掃除だけでも大変だ。それで心配りを形に現わしての、まぁいうなら大体一月間だったと思うですけれども。ね。もう本当に私昨日は二階が全部冷える位な大きな冷房が取り付けてございましてから、いつもあそこは暑い盛りです。もういくら扇風機をかけてもとわないといった様な感じのお祭りでしたけれども。
昨日はそういう訳で涼しい中にお祭りを仕えられました。皆さんに聞いて頂いた話ですけれども、先日原さん所のお祭りの時にもお話しましたがです。ね。あのうそれこそ人間の幸福の条件。暑かっても暑さを感じんで済む程しの、寒かっても凍えておらんで済む様な暖かいおかげを頂かして頂けるのが御道の信心。今日冷房が付いておると言う事だけで、ね。皆の人がこんなに涼しい、しかも麗しい気分の良い有り難いお祭りを拝む事が出来た。ね。何かもうそれこそ。
泥棒捕まえて縄をなうと言った様なものではなくて、前々から準備に準備が重ねられて、そこに人の協力を得られてお祭りが出来た。願いに願って居られた丁度二、三日前でしたしょうか。ひろ子さん所へ電話が掛かって来た。二人の娘さんが一人がどうかなんか麻疹。一人はふうばれでこう熱が出ておる。だからもう折角おかげ頂くと思いよったばってんでけんごとあると言うて、電話掛かって来た。関さんが「そりゃひろ子さん、あのう神様があんたが本気で参ろうと思うとるかどうかお試しがありよるとばい。
お母さんがお願いをするけんおかげを頂きなさい。」と言うてその電話をきって、まあ来るか来んか分かりませんけれども、あぁ楽しんで待ったですけれども、というお届けが有りましたが、けども「親のその一心が届かんはずはないですよ」と言うて居りましたが、おかげでふうばれも熱も下がって二人の子供連れて、元気で本当おかげを頂いたと言うてから参って来て居りました。
そしてその願わくばお道の信心をさせて頂くならばね。いうならば冬を寒い凍えるような思いをせんで、夏は汗ぶるぶると言った様な、いうなら辛い思いをせんで済むようなおかげの頂けるのが御道の信心。そこで一遍にはでけん。それを設備をする。それをほなら据えつける。というまでの手が掛かる。これは暖冷房だけの事ばかりではない。もう人間の幸福の条件の全てが、その様にして足ろうて来る程しのおかげを頂くと言う事。自分の心の上にもそうです。
イライラ、モヤモヤ腹が立つと例えば言った様な事には、夏を夏と感じておる時です。もう辛うて悲しゅうてという時には 冬をやはり凍えて居るような状態の時です。自分の心の中にそういう暖冷房がね。いうならば設備出来る様な、ボタンを一つ押せば、どういう難儀の中にあっても有難いなとこう平生でおれれるという信心。そう言う信心がです、愈々いうならば土の信心を持って。それを私共は受身の信心とでも言うでしょうかね。それこそ黙って治めるという修行を本気でさせて頂いて来た。
それ完全に身についておる訳じゃないけれども。昨日の御理解から、そして今日の御理解の八十一節と言う事を頂いてです。宝来山も八合目まで登っておる。後の二合というのはどういう信心だろうか思うたら、この二合の信心こそ天の信心じゃと。ね。限りなく美しゅうならないけません。ね。問題を問題と感ずる時には心が汚い証拠。ね。美しゅうなれば問題はその場で解決する。ね。
どういう場合であってもそれこそ無条件。こうしてやるけんでこうでなからにゃならんと言うもんじゃない。ね。無条件の奉仕無条件の御用、無条件に与えるという信心。ね。皆さんが教会に対する御用でも少し変わってこなければいけないと思うんです。ね。教会にね今まではいうならば自分が豊かに、自分が喜べるような信心、心が豊かになって土の信心によって愈々その受け心が出来たというのですから。ね。
ですからこれからあとの二合というのは、今度は神様が愈々喜んで下さるという信心。しかもそれは無条件。ね。しかも限りなく与えて与えてやまないそういう心。ね。そういう心にこれから愈々取組まさせて頂いて。ね。後の二合をいわゆる全うしたい。天地の徳が足ろうた信心と徳を受けて。ね。それこそ向こうへ下りるまで、この信心を愈々続けさせて頂くという所に。ね。
まっいうなら完璧な上にも完璧、天地の信心が足ろうたおかげ。ね。足ろうた言うなら信心と言う事になるのじゃないでしょうか。今まで天の心と言う事を言わない訳じゃなかったけれども。本気で取り組んだと言う事は。まあ言うならば土の信心であった。大地の信心であったと言う事なんである。これからはいわゆる天の心の信心をね。とにかく無条件の奉仕と言う事。こんな美しいことは無いと思う。ね。一つ無条件のいうならば奉仕。美しい心を愈々極めて行きたいですね。
どうぞ。